#1 櫛形山 霧の中で
#1 櫛形山
22時に駅前でと、LINEが鳴る。テレビを見ながら明日のパッキングをしているが、かれこれ30分は画面の奥しか見ていない。明日は2ヶ月ぶりの登山というのに一向に気が乗らない。それもそう、外は降り頻る雨、正に梅雨だ。
学生時代のサークルのイベントで登山にハマった。あれから今に至るまで色々な山にも行ったし、1週間くらいのテント泊登山や雪山、様々な形で登山をやってきた。数え切れぬほど日帰り登山も行った。が、今まで日帰りの時に天候が怪しかったら即中止にしていた。雨の中や眺望のない登山などクソくらえだ。だから今回も中止にしようと連絡をした。なのに今回もキムの押しに負けた。
キムは大学の同期でサークルで知り合った友人だ。自分ほど山にはハマらなかったが、年に4、5回は一緒に登山をしている。優男でいい奴で育ちも良いのだがどこか抜けていて、自分とは正反対だったが、とにかく気が合った。なぜかキムに何か頼まれると断れなくなる。そんな力を彼は秘めているのだ。
「明日は雨じゃないって、予報なら6時から曇りだよ」
電話越しなのにキムの憎めない笑顔が簡単に思い浮かぶ。
「6時まで雨でその後曇りで低山だろ、ガスで何も見えないぞ」
「いいからいいから明日は天気が悪くてもいい山なんだって」
いつもは自分が登山の計画を立てるのだが、今回はキムが張り切った様子で任せてほしいと言うので全投した。
「…分かったよ、じゃあ今晩迎えよろしくな、遅れんなよ」
ぶっきらぼうに言って後悔する。遅れんなよと言っておきながら多分もう駅まで間に合わない。果てしなく自分が嫌いになる。遅れると連絡を入れると部屋の前まで迎えにきてくれるというキムに今回はもう頭が上がらなそうだ。よしキムのためにも、今回は天気云々ではなく旅自体を楽しんでやろう。そう決め自宅の階段を降りる。
玄関を開けただけで顔に水がかかる勢いで雨は未だに降り続けている。ほんとに明日の朝には止むのかと思いながら玄関先に止まっているキムが親父さんから譲り受けた真っ赤なアクセラに乗り込む。
「よっしゃー、行くぞー」
というハイテンションに楽しむ覚悟を決める。
「ほないこか」
アクセラが山梨に向け発進する。
櫛形山聞いたことのない山だった。調べて見たところ甲府盆地にある200名山のひとつであるらしい。富士山や北岳が綺麗に見え6月にはアヤメを見るため多くの登山者が訪れるらしい。そんな眺望も多くの登山者もこの天気じゃ今回は望むことができそうにないが。
深夜1時、我々は今日の目的地「道の駅しらね」の駐車場にいた。
基本的にキムと山に行くときは前日夜に現地に乗り込み車中泊をしてから早朝登山口に向かう。朝集合遅刻しがちの我々にはこのスタイルが安心なのだ。
随分と雨足は弱まったが未だ降り止む様子はない。トイレとタバコをすまし目覚ましをかける、リクライニングシートをできるだけ倒しパーカーのフードを被り目を閉じ一息つく。車を叩く雨音が静寂な車内に響き渡る。
「3時間くらいは寝れるかな」
「起きて降ってたらもう少し寝てもいいんじゃない」
どうせ天気の悪い山なんだ早く出って行っても意味がないから寝ていたい。やはりこの天気を目の前にしていると、上げてきたモチベーションがついつい落ちてしまう。
「とりあえず起きたら考えるか」
「んーそれもいいけど、6:30には出たいなー」
何でだ、と思いながらも理由は聞かないことにした。
「おー、じゃあさっさと寝ますか」
「そうだね、じゃ、おやすみ」
数秒も経たないうちに隣からリズムよく寝息が聞こえてくる。はえーと思いながらも自分にも眠気が襲いかかってくる。ダッシュボードに足を乗せ快眠出来る姿勢を整えながら眠りへと落ちる。、雨と隣人の心地の良いリズムの音色を感じながら。
目が覚め、時間より先に天気を確認する。曇天の明け方だ。雨が止んでいる安堵と分厚い雲の憂慮が交差する。大分早く起きたな、時計を確認すると4:54。アラームより1時間も早く起きてしまった。隣人はまだ夢の中、少しの物音じゃ起きそうにもない。キムが起きないようにそっと車を出てバキバキになった体を目一杯に伸ばす。深く息を吸い一気に出す。着いた時は暗くて分からなかったが四方には山々が見える。天気が良ければもっと上の方まで見えるであろう立派な山々も真っ白なガスで覆われ中腹までしか見えない。携帯の地図アプリを見ながら櫛形山を探す。
ーー思ってた以上にデカイな
ーーこの天気であれを登るのか
ーーどこまで車で上がれるんだろ
そんな事を思いながら体を整える。上がらない気持ちとは裏腹に体のコンディションはどうやらいいらしい。喫煙所でタバコを一服しコーヒを啜りながらネットニュースを読みながら時間を潰す。顔を洗い、歯を磨き車に戻るとキムが目を覚ます。
「んーーおあよう、何時?」
こいつは天気より時間の方が気になるのか
「6:00前だな」
「アラームより先に起きれたかー、おっ雨上がってるじゃん、いいねー」
「見てみろよガスガスだぞ」
「いいんだよ、それで」
キムがニッと笑う。
近くのコンビニで朝飯を済ませ昼飯を調達し登山口に向かう。
途中まで軽快に進むアクセラも2車線の舗装道が終わり狭くガタガタな林道に入ると、その縦ににデカイ車体に四苦八苦する。
「マジ?」「こんな狭い?」「ほんと合ってる?」
ブツブツと独り言を言うキムを横目に窓の外の景色を眺める。初めは薄がかっていたきりも標高を上げるにつれどんどん濃くなる。林道が終わり切り立ったヘアピンカーブが連続する道に差し掛かる。ものすごく見晴らしがいい。のだろう普段なら。しかしフロントガラスの向こう側に広がるのはわずか数メートル先しか見えない完全真っ白な世界。
「まぁもうここまで来ると幻想的と言ってもいいな」
「そう!」
いきなり声を張られびっくりしてキムを見ると嬉しそうに続ける
「今日のテーマは『幻想的』です、ジブリのような世界を堪能下さい」
呆気に取られた
「雑誌で読んだんだけど櫛形山って地衣類とかの植物が相まって、霧の中歩くのも結構いいらしいよ、だから今回この梅雨の時期には丁度いいかなって、でも昼前くらいにはガスあっがちゃいそうだなー」
だから時間を気にしてたし、前日は雨が降ってて嬉しそうだったんだなと合点がいった。
「じゃあ今最高のコンディションってことか」
「ワクワクしてきたでしょ」
あれだけ低かったテンションが逆転する。さっきまで憂慮はどこへ高揚感が爆上がりだ。
「あんま車止まってないな」
登山口に着く。キムの言う通り駐車場には2、3台しか止まっていない。
「ま昨日あの天気じゃな」
「人も少なさそうだしラッキーだな」
車から降り準備を済ませストレッチが終わったらいよいよだ。登山道に入るといきなり対害獣用にゲートが設置してある。ゲートを潜ると山に入った感が増しワクワクが増す。ただまだ神秘的には程遠く、ただただガスってる森の中を歩いてる感覚だ。勾配がキツくなってくる。しんどさを誤魔化すように雑談を交えながらひたすら足を上げる。
30分くらい歩いただろう稜線に出た。なるほどこれが神秘的と言うやつか。蒸れた地面に地衣類が、背の低い植物が生い茂り、両側には新緑色の葉を生い茂らせた背の高い木々が綺麗に並んでいる。目の前には緑、白、茶色のコントラストが広がっている。
少し歩くとベンチがありそこだけ稜線に木々がなく切り開かれている。ここで休憩をとることにした。天気が良ければ眺望があるのだろう。我々の目前は真っ白の世界以外何もないが。只今はそんな眺望もどうでもよくなるぐらいこの白の世界に浸っていた。
「最高かよ」
「でしょ、でもここから先もすごいよー」
「来たことあんの」
あまりにも自信満々に言うものだからついつい聞いてしまった。
「ないよー雑誌とネットに書いてあったー」
あまりに、らしい答えに笑ってしまう。キムのこう抜けている部分が苦手という人もいたが自分はこう言うところに惹かれているのだ。
「じゃあネットの信憑性を確かめに行くか」
と腰を上げ再び歩き出す。
思ってた以上に簡単に山頂に着いてしまった。1時間もかからなかったであろう。特に物珍しい景色もなかったので標識だけ写真をとって山頂を後にした。
「この先もう一つ山があってそこの山頂でお昼でもどう」
「どんくらいで着くの?」
「んー分かんない、1時間もあれば着くでしょ」
「適当だなー、じゃそうするか」
プレゼンは上手いけどプランニングは下手だなと不安になる。全投はしたものも少しは調べておくんだったなと少しの後悔と共にキムの背中を追う。
山頂からしばらく歩くと少し景色が変わり始めたことに気づく。霧が一層濃くなり、木々の樹皮や枝に糸上に絡まる地衣の登場によって一層幻想的になる。不気味なくらい濃い霧の中わずか自分達の四方10メートルくらいに広がる緑の世界。正に神秘的な世界。この微妙な天候の日にしか出会えなかったであろう白と緑の世界にただただひたすら息を呑む。天気に拘っていた自分が嫌になる程そこには現実離れ世界が広がっていた。
「すごいな、ジブリ感って言うのかな、このもののけ感、すごいな」
目の前の光景に自分の語彙量が著しく低下し行った側から恥ずかしくなる。
「予想以上だよ、これは感動モノだね、ね、来てよかったでしょ」
「大感謝だよ、キムにも天気にも」
「いつも山連れて行ってもらってたからね、前回、槍で見た朝日のお返しかな」
何年か前に渋るキムを槍ヶ岳に引っ張って連れて行った時に見た山頂での景色を引き合いに出された。あの時のキムの中であの景色は衝撃だったのだろう、よくあの景色を自慢げに話すらしいが、今日から自分はこの景色を人に自慢するだろう。
「この木に絡まってるの何」
「わかんない、とろろ昆布じゃない」
「絶対違うだろ、なら食ってみろよ」
冗談で言ったのにキムは頭上に垂れ下がっている地衣を手に取り一噛みする。
「味はない」
真顔でこう答えるキムを見て感動が台無しになりそうだ。
もうひとつの山裸山の山頂で昼食をとり、周回コースをとって帰ることにした。山頂を出発して1時間ぅらい歩くとガスが上がってきた。ゴール付近には北岳を眺望できる展望台があるらしい運が良ければ北岳を見て帰れるかもしれない。今年のお盆すぎにキム夫婦と北岳に行く予定だ。
もしかしたら今回キムは天気がどっちに傾いてもうまく行くように自分を櫛形山に誘ったのかもしれない。恐るべしキムのプレゼン力。